「マジョリティの困難」はなぜ見えづらいのか――リベラルの「死角」についての考察(前編)

路上、SNSでリベラル・・左派を中心に繰り広げられる「戦争をさせない」。リベラル論者は、自らを「マイノリティ」とし、だれもが皆どこかしらマイノリティだとする。だからこそ、連帯すべきなのだとーーしかし、取材のなかで分かってきたのは、「経済」偏重のリベラルの問題意識。「マジョリティの困難」とは何か。なぜ見えづらいのか。キーワードは「生きづらさ」。
白坂リサ 2026.06.10
誰でも

「マジョリティの困難」はなぜ見えづらいのか――リベラルの「死角」についての考察

後方の縁石に、一人の女性が座っていた。三十三歳、膝にプラカードを立てかけている。少し離れた木陰には、二十三歳の美大生が、列にも輪にも加わらず、木脇に佇んで眺めていた。「画面の向こうの世界だった」と彼は言う。「自分の国でこれだけ大きなものが起きているとは思わなかった」。

声を上げる人々と、その縁に立つ人々。

「戦争をさせない」――デモを取材したこの日の現場は、いま「リベラル」と呼ばれるものが置かれている場所を、そのまま縮図にしていたように思う。

1    マジョリティの困難とは何か

きっかけは、批評家・東浩紀氏による投稿だった。

この「左派リベラル軍団」が抱く、自分たちだけがマイノリティに寄り添っているのだという自信は、いったいどこから来るのか、と。一見すると挑発的な揶揄に見える。だがここで問われているのは「寄り添い」という身振りそのものが帯びる「位置」のようなものの問題だろう。誰かに寄り添う側に立つとき、人は自分を「寄り添われる必要のない者」の側に、無意識のうちに置いている。

これに応じた映画評論家・町山智浩氏の言葉は、興味深い。

氏は「左派リベラル」というレッテルにも、「寄り添う」というあるしゅ上からの位置取りにも加担しない。自分は韓国系日本人として、生まれてからずっと、どこへ行っても永遠にマイノリティなのだ、と。そのうえで氏はこれを次ように普遍化する。誰もが何らかの意味でマイノリティであり、いつかどこかでマイノリティになりうる。誰にでも差別や弾圧を受ける可能性がある。だから連帯し続けよう、と。寄り添う側ではなく寄り添われる側から語り出すことで、東氏の批判をかわし、同時にリベラル・左派を励まそうとする言葉を投げかけた。

町山智浩
@TomoMachi
「左派リベラル」とか「寄り添う」ではなく、僕自身が韓国系日本人なので生まれてからずっとどこに行っても永遠にマイノリティなんです。でも、誰だってみんな何かの意味でマイノリティだし、いつかどこかでマイノリティになるんですよ。誰にでも差別や弾圧を受ける可能性があるんです。だから連帯し続
東浩紀 Hiroki Azuma@hazuma
それにしても、この左派リベラル軍団の、「おれたちだけがマイノリティに寄り添っている」自信はどこからくるんだろうな。
2026/05/24 06:40
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この論は、たしかに説得力がある。「われわれ対かれら」の線引きを無効化し、連帯を特定の勢力の占有物から、人間誰しもの条件へと開いていく。善意においては、これ以上なく誠実な応答である。

だが現実には、多数派の側に立っているがゆえに可視化されない困難、というものがある。私には、そちらのほうが、いま社会を覆っている「生きづらさ」の本質にずっと近いように思える。「みんながマイノリティ」という語りは、その善意とは裏腹に、この〈多数派ゆえの困難〉を表現するための言葉を、先回りして奪ってしまう。

さらにこの普遍化は、問題の在りかをずらしてしまう。社会の構造ではなく、「個人の中」のほうへと。一人ひとりが内に抱えるマイノリティ性を数え上げ、それを固有化していくと、あらゆるマイノリティ要素が組み合わさった個人はますます細分化された「バラバラな個人」になっていく。連帯のために持ち出されたはずの「マイノリティ」という言葉が、皮肉にも、人と人とを分割する単位として働きはじめる。アイデンティティの不安に駆られ、その不安を埋めるために連帯の対象だけを増やし続ける――その状態は、はっきり言って、歪だと思う。真面目で誠実であろうとすればするほど歪んでいく、その構造そのものに、私は強烈な違和感を覚える。

マジョリティの困難はなぜ見えづらいのか。

一つの答えは、それを見るべき位置にいる人々こそが、「みんながマイノリティだ」という善意の語りによって、自らの〈多数派ゆえの困難〉を名指す言葉を、自分の手で手放してしまっているから、というものだ。そしてこの「バラバラな個人」への細分化は、より大きな潮流の、一つの現れにすぎない。

2 彼らは「保守の伸長」をどう説明したか

取材のなかで私が繰り返し尋ねたのは、昨今の著しい右傾化・保守化はなぜ起きていると思うか、という問いだった。返ってきた答えは、驚くほど揃っていた。

一人目の女性は言う。「生活が苦しくなったこと。一%の富める者と九十九%の貧しい者との間で分断が起きている」。その分断のなかで、外国人や生活保護受給者が格好の敵とされ、人々の潜在意識が煽られたのだ、と。二人目の女性は言う。「PRが上手かったからではないか。耳触りのいいことを言っていた」。四人目の女性は、教育に原因を見る。「上の言ったことには逆らえない」「穏便に済ませる」という価値観が、長い時間をかけて醸成され、人々から疑う力を奪ったのだ、と。

整理すれば、説明は二つの型に収まる。一つは「困窮させられ、煽られた」という被害者モデル。もう一つは「うまい言葉に騙された」という、いわば愚民モデルだ。どちらの型も、保守に向かった人々を、本来なら――生活さえ立て直れば、まっとうな情報さえ届けば――こちら側に戻ってくるはずの存在として描いている。経済を回復し、正しい知識を配れば回収できる。そういう前提が、共通されていることがわかる。

私は、この一致にこそ、リベラルの最も深い死角があると思う。

なぜなら、この説明は、保守に向かった人々の困難を、ことごとく「経済」か「情報」の問題へと翻訳してしまうからだ。だが、「日本人ファースト」という言葉が多くの人に刺さったのは、本当に財布の問題だけだったのか。そこには、自分が何者で、どこに属し、誰に認められるのか――承認や帰属や尊厳をめぐる、分配では決して解けない「枯渇」があったのではないか。橘玲氏の言葉を先取りすれば、「お金は分配できるが、評判を分配することはできない」。生活苦モデルは、分配で解ける困難だけを困難として認め、分配で解けない困難を、はじめから困難の数に入れていない。

そして、ここが核心だ。多数派の困難は、「経済的弱者」という見慣れた箱に入れ替えられた瞬間に、当事者の手を離れ、観察対象になる。「煽られた層」と名指すとき、その人々の苦しみは、本人の言葉ではなく、こちら側の経済理論のなかで代弁されてしまう。困難が見えていないのではない。言ってしまえば、見慣れたかたちに翻訳することによって、見えなくしているのだ。

ただ、取材のなかで、1人から興味深い話を聞いた。「PRが上手かった」と語ったあの女性は、続けてこう漏らしたのだ。「子どもの頃から、嫌韓・嫌中の空気感を、報道や生活のなかで感じてきて、正直、偏見を持つ気持ちもわかる」。彼女は、保守の伸長を「うまい言葉に騙された結果」と説明しながら、その直後には、それが自分自身のなかにも流れている根深い感情なのだと認めている。この小さな自己矛盾こそ、新たな翻訳の道への鍵となりそうではないか。そのために、ある論者の言葉を借りる必要がある。

3 橘玲の指摘――「リベラル化」とは何か

著述家・橘玲氏である。氏は『無理ゲー社会』(2021)で、世界が「リベラル化、知識社会化、グローバル化」の巨大な潮流のなかにあると述べた。ここでいう「リベラル化」とは、①世界が複雑になり、②中間共同体が解体し、③自己責任が強調される、という三つの過程を指す。橘氏は、リベラルな秩序が浸透すればするほど「生きづらさ」が増していくと指摘する。「お金は分配できるが、評判を分配することはできない」からだ。先の女性が口にした「嫌韓・嫌中の空気のなかで育った」という感覚――分配では決して埋められない帰属と承認の枯渇感――は、まさにこの潮流の流れにあると言って良い。

先ほどの「バラバラな個人」は、まさにこの②――中間共同体の解体――が、アイデンティティの次元に現れたものだ。そして興味深いことに、その解体は、取材したデモの現場そのものに刻まれていた。

「いまここにいる人たち」と連帯したい、と二人組で参加した三十代の女性たちは言った。「ネットだとつねに一人だが、現地だと心強さがある」。別の三十代の女性は、「本当なら友人たちみんなと連帯したいが、近しい人の前ではなかなか言えない」と語った。三十三歳の女性は、職場で政治の話をして注意され、デモへの参加もとがめられたという。「家でニュースを観ていると暗い気持ちになって辛いので、こういう場に来ることで元気をもらえる」。

彼女たちにとってデモは、抗議の手段である以上に、解体した中間共同体の、一時的な代替物として機能している。職場でも、友人の前でも、ネットでも一人になってしまう人々が、月に一度、路上で束の間の「われわれ」を回復する。橘氏のいう中間共同体の解体、それはプラカードを握る手に、どことなく滲む「心細さ」として表れていたーー。

4 宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』の誤算――「現実軽視」の本質

では、リベラルの側はこの事態をどう捉えているか。政治学者・宇野重規氏は、分断の時代にあってなお、「動的な自己批判と自己変革」と、「人々の平等を前提にしたモラル」を説く。一人ひとりが自分らしさを尊重してもらうためには、他者のかけがえのなさもまた尊重しなければならない、と。

後編でより詳しく紹介するが、時代への危機感において、橘氏と宇野氏は近い。だが、その処方箋として宇野氏が差し出すものは――あまりに〝マッチョ〟すぎないか。絶えず自己を批判し、変革し続けよ。他者のかけがえのなさを尊重せよ。皆がそれを実践できたなら、それは素晴らしい。だが「現実」は違う。自由と平等の尊重によって生じた個人の「拠るところのなさ」を、その自由と平等という価値の絶対化によって解消しようとする――ここにはアイロニカルな循環がある。

その「マッチョさ」の帰結も、また現場にあった。一人目の三十代の女性は、ちょうど十年前、学生だった頃から安保法制反対のデモに通い続けてきたという。「自分以外にも、こうした運動をもう何十年とやっている人がいる。しかし十年経っても何も変わらず、むしろ悪い方向に進んでいて、若い人たちに申し訳ない気持ちがある」。自己批判と自己変革を求める規範は、現場では、報われない持続とあるしゅの燃え尽きとして表れているようにみえた。

そして、その極限に、あの縁石の女性がいる。精神的な健康問題を抱えている、と彼女は言った。いまの課題は「五体満足で健康でいること」。お金を稼ぎ、好きなことをし、まず身を守ること。彼女の過去に何があったのかは分からない。しかし、終わりのない自己変革の要求は、ある地点で、身を守ること自体が精一杯だという場所に行き着くのかもしれない。ー

5 「生きづらさ」を解読する

ここで一度、先行の研究を参照したい。

現代日本における「生きづらさ」は、社会構造に由来する困難であるにもかかわらず、しばしば個人の内面の問題として語られる。この問題の個人化は、学術的には「心理主義(心理学化)」と呼ばれてきた。社会的支援や制度の不備が、個人の「心の持ちよう」や「自己変容」の課題へとすり替えられていく。岩山・渡邊(2023)は、新聞記事の計量テキスト分析から、「生きづらさ」という語が近年「自分」や「(問題を)抱える」といった語と強く結びつき、表現そのものが問題の個人化を促している可能性を指摘する。貴戸(2022)は「生きづらさ」を、個人化した社会からの「漏れ落ちの痛み」として捉えた。

そしてもう一つ、若者の側には、別の適応が広がっている。コンサマトリー志向――将来の達成よりも「いま・ここ」の充足を重んじる価値観だ。長谷川(2023)は、この現在志向が若者の幸福感を支える一方で、能力主義への疑問を手放す方向にも働きうることを示唆する。原・根本・永吉・奥村(2024)は、現代若者の「生きづらさ」を、社会からの要求と現実とのギャップから生じる「相対的生きづらさ」と呼んだ。社会が「個人として努力し続けよ」「あなたらしくいるべきだ」と要求する一方、雇用も社会も不安定化していく。そのギャップが、新たな生きづらさを生んでいるという。

6 声をあげられるという特権性

ここまで来て、一つの事実に気がつく。

社会に目を向ける暇もない層、あらゆる不安を「日本人ファースト」に託した層は、現場にいなかったことだ。彼らは、参加者たちの言葉のなかに、「煽られた層」として、あるいは「もともと政治に関心のない層」として、語られる対象として現れている。

しかし声を上げる彼ら自身もまた、構造の犠牲者である。中間共同体を奪われ、自己責任を内面化し、終わりのない自己変革を求められている点では、まったく同じ潮流のなかにいる。ただ、彼らはまだ、声を上げられるだけの余力を残した場所にいるといえるのではないか。もちろん、各々いろんな状況があるのは知っている。生活苦に悩んでいるのも知っている。しかしーー「武器より金」が叫べることの特権性。”理性”の力で1つの、もっともましな「悪」と「理想」を見出せた特権性。嵐のような時代に、自らの立場を見つけ、「掴まり棒」に掴まれた特権性。

他方、子どもの頃から嫌韓・嫌中の空気のなかで育ち、「偏見を持つ気持ちもわかる」と漏らした女性や、「反差別もエスカレートすると危うい」と口にした女性には、自らなのなかに揺らぎがあった。同じ一つのデモのなかにも、この勾配がある。

では、どうすればいいのか。「みんながマイノリティだ」と唱えて連帯の対象を際限なく増やしていく、あの歪んだ運動の外に、出口はあるのか。手がかりは、おそらく逆説的な方向にある。バラバラな個人であることを、不安として埋め合わせようとするのではなく、いったん引き受けること。連帯を、なんらかの欠落を埋めるための焦りからではなく、孤独を孤独として受け入れたうえで、それでもなお他者とともに並びなおすこと。

それが何を意味するのか――「近代」という、より大きな枠組みのなかで考え直す作業は、後編にゆずりたい。

〈参考文献〉

樫村愛子(2003)『「心理学化する社会」の臨床社会学』世識書房

宇野重規(2010)〈私〉時代のデモクラシー 岩波新書

橘玲(2021)『無理ゲー社会』小学館新書

長谷川裕(2021)「今日の若者の能力主義をめぐる意識の把握に向けて――前提作業としての2000年代高校生意識調査データの再分析――」『琉球大学人文社会学部紀要 人間科学』第41号

貴戸理恵(2022)『「生きづらさ」を聴く――不登校・ひきこもりと当事者研究のエスノグラフィ』日本評論社

岩山孝幸・渡邊寛(2023)「「生きづらさ」は問題の個人化を促しているのか?――計量テキスト分析を用いた新聞記事における心理主義的用語との対比から――」日本心理学会第87回大会発表論文集

長谷川裕(2023)「今日の日本の若者のコンサマトリー意識――高校生意識調査データの分析を通じて――」『琉球大学人文社会学部紀要 人間科学』第43号

原広司・根本裕太郎・永吉真子・奥村春香(2024)「若者の生きづらさの概念化に向けた一考察」『横浜市立大学論叢社会科学系列』Vol.76 No.1

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